区分けされた小さなお墓「分譲型永代供養墓 縁」がある歴史あるお寺 曹洞宗 新昌寺

History

由緒

山号には別に“鳥居山”もある。
本尊は釈迦牟尼仏。

創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚による。
創建当時は「喜船庵」と称された。

天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」のある有海の地は戦場となり、
特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡があり碑が立っている。
合戦後、強右衛門は「喜船庵」に埋葬された。
「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められた。

新昌寺には医王寺十四世仙翁覚大和尚を勧請開山とし、
開基には有海の領主旗本松平加賀右衛門として現在に至っている。
現在は十九世である。

合戦後鳥居強右衛門の墓であるが、慶長8年(1608年)強右衛門の子信商の手によって作手鴨ケ谷甘泉寺に移転された。
その後百六十年間廃墟となっていたが、宝暦13年(1763年)に有志の手によって再建された。
碑面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年 三十六歳」とあり、
碑面左には「わが君の命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」とあり、 これは辞世の句とされる。

明治36年(1903年)境内には鳥居閣が、大正9年(1920年)には墓が拡張され、現在の形に整えられた。
現在、毎年4月に“鳥居祭”が行われている。

長篠の戦い

  • 長篠の戦いは武田軍と織田軍との戦のことを指し、天下統一のきっかけとなる大きな出来事です。
    当時尾張の織田信長率いる織田軍と、甲斐の武田勝頼(武田信玄の息子)率いる武田軍が、現在の愛知県新城市で戦いました。
    長篠の戦いが起こった原因は、徳川家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。
    戦いに勝利したのは織田でした。
    教科書でも大々的に取り上げられる長篠の戦いは、織田信長の天下統一への一歩として有名です。
    騎馬隊で有名な武田の勢力でしたが、大いに上回る軍勢を率いた織田・徳川連合軍の圧勝でした。
    有名な戦いの一つですが、長篠の戦いには織田・徳川連合軍を勝利に導いた英雄がいます。

鳥居強右衛門の活躍

  • 鳥居強右衛門(とりい すねえもん)とは、当時長篠城を護っていた奥平貞昌の家臣で、長篠城が武田によって攻め込まれた際に徳川に援軍を頼みに行った人物です。
    鳥居強右衛門が援軍を頼みに岡崎城に到着した際、そこには既に加勢する準備をした織田・徳川軍がいました。
    「明日には長篠城に援軍を送る」という言葉を聞いた鳥居強右衛門は、仲間に報告するために急いで長篠城に向かいますが、あえなく武田軍に捕まってしまいます。
    武田に対し鳥居強右衛門は、織田の援軍があることを伝えました。
    そこで武田は「長篠城の前で『援軍は来ないから諦めて城を渡せ』と言ったら、お前を開放してやる」と言い渡します。
    了承した鳥居強右衛門は長篠城の前で声高らかに「すぐに援軍が来るからあと少しだけ持ちこたえろ」と叫びます。
    武田の命令とは真逆のことを叫んだ鳥居強右衛門を、武田はその場で殺してしまいました。
    鳥居強右衛門のおかげで援軍が来ることを知った長篠城はなんとか持ちこたえることができたのでした。
    長篠の戦いの後、奥平貞昌は大出世をすることになり、鳥居強右衛門の一族はその忠臣として、子孫の代まで厚遇を受けることになります。

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